Story 04 安芸高田市 高宮酒米部会【後編】
田中さんの話によるとこうだ。
昭和40年代頃まで、広島のほとんどの酒米団地で八反35号という品種が栽培されていたが、育てやすいよう改良された八反錦がデビューすると、どこの団地も八反錦に切り替えてしまった。
八反35号は草丈が長いため倒れやすく育てにくい。だが、心白が小さいため磨きこむ大吟醸に適した酒米だった。そこで賀茂鶴の当時の製造部長が全農に八反35号の栽培も依頼したが、声をかけられた酒米団地はどこも断ったらしい。そこで、白羽の矢が立ったのが田中さんだった。
「難しいからつくらないという考えは私にはありませんでした。たとえ難しくても、蔵元さんがほしいというものをつくる。それが産地としての責任でしょう。だから、どこもつくらんのならうちがつくりましょうと言いました」
きっぱりと、かっこいい。
一方でそれは、生産者にとってリスクのある選択だ。そのリスクを少しでも減らし、多くの収量を確保できるよう道免さんのお父様と協力して部会組織を立ち上げ、組織で作付け面積を確保し、栽培方法も共有しながら質の高い酒米を栽培するという仕組みをつくりあげた。
それでも当初は相当手こずったらしい。
「草丈が高くなりすぎないよう、基肥(もとごえ)を3割、4割少なめにして生産していくと当然収量が落ちます(※1)。例えば八反錦を10とすると、八反35号は6ぐらいまで落ちるわけです。そのバランスを取るのが非常に難しく、育てにくい。その分、八反35号のほうが八反錦より単価は高かったんですが、それでもよその団地はつくらんかった。それだけつくりにくい品種だったということです」
※1 稲の草丈が高くなりすぎて倒れるのを防ぐため、基肥の使用量を抑えて稲の成長を調整し、倒伏を防ぐ
こうして田中さんの指導のもと、八反錦とともに八反35号も栽培することとなった高宮酒米部会は、苦労しながらも収量を少しずつ伸ばした。そうした努力が実を結び、5、6年後にはついに県内一の酒米生産量を誇る団地に成長した。
今では県内の酒米生産量の46%を占める高宮酒米団地だが、その大躍進は田中さんのチャレンジ精神と生産者としてのプライド、そしてそれに応えてきた高宮酒米部会という組織の存在があったからにほかならない。
高宮酒米部会の元には、今も蔵元はもとより、農業試験場から現地適合試験の委託も多く舞い込む。「ここまでたくさんの品種をつくっとるところはないよの」と胸をはる松川さんに頷く道免さん。二人とも誇らしげだ。
「そういえば、私が40代の頃だったですかねえ…」田中さんがまた何かを思い出した。
「荒巻先生の前任の小林先生(小林信也 元取締役副社長兼製造本部長/元国税庁醸造研究所所長)が芸備錦の種もみを持ってこられたこともありました。倒れにくい品種だから広島錦よりは育てやすかったんですが、晩稲だから収量が少ないんです。だからある程度の収量を出すまではやっぱり3年かかりました」
芸備錦もそうだったのか。「じゃあ、荒巻先生が広島錦を持ってきた時は「またか!」と思ったんじゃないですか?」と言うと、田中さんは「ああ」とちょっと遠慮がちに笑いながら「最初は私が22歳の頃だったですかねえ。技師長の鼓さん(鼓 尚夫 のち常務取締役 技師長・御薗工場長)や杜氏の川西さん(川西謹吾 杜氏)に頼まれてつくった品種もありましたよ。蔵にも何回もお邪魔しました。「酒を搾るからすぐこい」って言われて急いで蔵へ行ってね。唎かせてもらいましたよ」
思い出してはうんうんと頷き、懐かしそうに話す田中さん。出てくる名前のそうそうたる顔ぶれは、賀茂鶴のまさに歴史だ。
「お父様の石井会長さんともよく話をさせてもらいました。蓬莱庵(賀茂鶴酒造が所有する迎賓館)にも上がらせてもらったことがあります」
NHK職員としてロケや転勤であちこちを転々としていた私は、当時の蔵の様子は知る由もない。なんとも貴重なお話を聞かせていただいた。
後継者問題に悩む農家も多いと聞くが、高宮では順調に後継者も育っているという。そこにも部会が果たす役割が大きいそうだ。
「そりゃ初代の道免会長と田中副会長とが一生懸命、部会の基礎をつくってくれたけえね。「いつから作付けしよう」とか「肥料はこれくらいにしてみよう」とか、部会が主体となってルールを決めて計画的に生産するから、品種もようけつくってこなしていけるし、担い手も育つ。だからうちはやめる農家が少ないんですよ」と松川さん。「いいチームですよ」と道免さんも頷く。
今は、松川さん、田中さん、道免さん、次の世代の息子さんたちが主体となって、高宮酒米部会を支えているそうだ。
「一つ言えるのは、酒米は食米より手間暇がかかるけど、契約栽培だから収入も安定しとる。だから若いもんも安心して取り組めるんです。こうして酒米をつくらせてもらえることに、私らも感謝しとります」と松川さん。
こちらこそ、いつも無理難題に応えていただき感謝してもしきれない。
「お互い様なんです。酒米生産者は米をつくるプロ、蔵元さんは酒をつくるプロ、お互いプロとしてプライドを持って熱い思いで協力し合う、二人三脚でいくという気持ちが大切だと思います」
田中さんの言葉は、とても重い。
田中さんをはじめ、高宮酒米部会の皆さんの高いプロ意識が、高宮という酒米団地をここまで成長させたのは間違いない。そして広島県が3大銘醸地といわれ、その地位を維持し続けてこられたのもまた、こうした農家さんたちの努力なしには成し得なかったことだろう。
高宮町への旅の締めくくりに訪れたのは、母方の祖父で日本画家の児玉希望の生家跡と児玉家の墓地。児玉希望はここで生まれ、代用教員などした後、画家を志して上京したのだが、なんとここから東京まで歩いたというから驚きだ。
途中行き倒れたりしながら東京にたどり着いた希望は、人力車曳きや看板書きなど苦労しながら日本画の大家・川合玉堂門下となった。のちに希望の一番弟子となるのが三次出身の奥田元宋画伯。そのご縁から私は今、奥田元宋・小由女美術館財団の理事を務めさせていただいている。
実は今年2024年の10月11月に24年ぶりに広島県立美術館で児玉希望展が予定されている。墓前に手を合わせ、展覧会の成功を願い、安芸高田市を後にした。
安芸高田市 高宮酒米部会
- ■住所/〒739-1807 広島県安芸高田市高宮町羽佐竹
- ※特別にご許可をいただいて取材をさせていただきました。