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Story 04 安芸高田市 高宮酒米部会【前編】

安芸高田市 高宮酒米部会【前編】

広島県は、昔から酒造好適米の生産が盛んだ。賀茂鶴が蔵を構える東広島市をはじめ三次市、安芸高田市、庄原市に4つの酒米団地(※1)があり、さまざまな品種の酒米が育てられている。

標高と酒米産地

引用元:広島県酒造組合
https://hirosake.or.jp/brewing/

※1 酒米の品質維持と安定的な生産を支えるため、優れた稲作技術を有する地域を酒米団地として指定し、JAグループが営農指導員を派遣して全面的にサポートする仕組みがとられており、現在広島県内には4つの酒米団地がある。

今回の旅先に選んだのは、その酒米団地の一つ、安芸高田市のJAひろしま北部高宮酒米部会(以下:高宮酒米部会)。賀茂鶴酒造から高宮町までは車で1時間も走れば行くことができる。

高宮酒米部会は、賀茂鶴酒造の法人設立100周年を記念して発売された純米大吟醸「広島錦」の酒米栽培をお願いしている団地で、それ以前からもずっとお世話になっている。そして安芸高田市高宮町は、私の母方の祖父・児玉希望(日本画家)の故郷であり、個人的にも所縁のある場所だ。

この日は晴天に恵まれた絶好のドライブ日和。車窓に流れる若葉の緑が目に眩しい。

酒米の里高宮
写真)市街地から1時間たらずでこんなにも緑豊かな田園風景を眺めることができる。

約束の時間より少し早く着いたので、のどかな田園風景を前に一息つく。すると間もなく、軽トラが続々とやってきた。高宮酒米部会で40年以上、営農指導員を務められた田中秀之さん、高宮酒米部会で役員を務めた道免一致(かずむね)さんと息子さんの浩二さん、そして現会長の松川秀巳さんがこの日のために駆けつけてくださった。なんとも、ありがたい。

それぞれ挨拶を交わし、さっそく事務所でお話を伺うことにした。

高宮酒米部会 写真
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写真)事務所の2階から近隣の圃場を見渡せる。
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写真)高宮酒米部会の事務所にて。左から田中さん、そして現会長の松川秀巳さん、道免一致(かずむね)さん、道免浩二さん
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写真)田中秀之さん。
今は営農指導員を引退し、高宮町の実家の農地で息子さんと酒米を栽培している。

「引退して10年以上経ちますので、昔の手帳を引っ張り出してきたんですよ」

田中さんはそう言って、小さな手帳を取り出した。営農指導員を始めた22歳から、40年以上毎日日記をつけており、今日のために当時の手帳を何冊か持ってきてくれたという。そのうちの一冊のページをめくった。

「今日は5月17日でしょう。例えば、2012年の5月の17日はですね、晴れのちくもりでした」

高宮酒米部会 写真

手帳には毎日の天気と、その日に何をしたかを記録し続けてある。

「えっと平成24年の4月4日に、荒巻先生と徳永さん、あと友安さんが私のところへおいでになっております」

当時、賀茂鶴の製造本部長をしていた荒巻氏(荒巻 功 現常勤監査役)が、杜氏たちと今から12年ほど前に訪ねてきたときのことだ。

「その時に荒巻先生が『賀茂鶴の顔になるような酒を造りたいんだ』と、これを持ってこられたんです」

そういって田中さんは私に白い袋を渡した。あれ?光に透かすと何か入っている。いいですかと断って袋の口を開き軽く振ると、手のひらの上にパラパラっと粒がこぼれ落ちた。

高宮酒米部会 写真 高宮酒米部会 写真
写真)その場にいたみんなが驚いた、広島錦の109粒のうちの3粒。

「これ、広島錦の種もみですか??」

想定外の発見に、思わず声がうわずった。「こりゃ、すごいのう」と、同席していた松川さんも感嘆の声をもらす。「いやあ、たまたま残しとったんですかね」と田中さんも身を乗りだし、私の手のひらの上の3粒をまじまじと見る。思ってもみない発見にびっくりした様子だったが、すぐに平静を取り戻し話を再開した。

「この袋の中に広島錦の種もみが20g。数えたら、109粒、入っておったんです。そして荒巻先生がこれをなんとか賀茂鶴の主力品種にしたいと、賀茂鶴の顔になる酒を造りたいから何としても頼むと、そうおっしゃったんです。なので私も『先生にそういう熱い思いがおありになるんでしたら、協力させていただきます』とお答えしました」

高宮酒米部会 写真 高宮酒米部会 写真

ちなみに賀茂鶴がなぜ、酒米・広島錦に注目したのかといえば、ことの始まりは製造本部長だった荒巻氏が「広島錦」の資料を見つけたことがきっかけだった。

広島錦は1930年代頃に広島県を代表する品種となることを期待され、広島県農業試験場で開発された品種だった。広島県酒造界の恩人といわれる橋爪陽氏も「吟醸米として優良である」と高く評価したようだが、草丈が高く、籾(もみ)が落ちやすいといった栽培の難しさから徐々につくられなくなり、人々の記憶から忘れ去られていった。しかし荒巻氏は、広島錦に酒米としての大きな可能性を感じ、広島錦の種もみを入手。田中さんのところに持ち込んだ。

「覚悟してやらなきゃいけんなと思いました。たった20g、109粒しかない品種を賀茂鶴の顔にしたいとおっしゃるんですから責任重大ですよ。
大量醸造までにはおそらく3年、4年かかりますよってお伝えしたのを覚えております」

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言葉一つひとつを噛み締めるような話しぶりから、広島錦の復活を託された田中さんの重圧の大きさがうかがい知れた。

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写真)手帳以外にも走り書きしたメモが。田中さんは高宮町の酒米の歴史の生き字引

「えっと…5月5日に箱へ種まきをしました。そして、芽が出たものを5月30日に田植えをしとります」手帳に挟まれていたメモを読んだ。

「圃場は道免さんにお借りして、苗を30cm間隔で一本ずつ植えました。なぜ一本ずつかというと、もしこの中に違う品種が1粒でもあったら、広島錦の形質を維持するために抜かなくちゃいけない。貴重な1粒ですから、抜くのは最小限にしたいわけです」

田植え後は、毎日圃場を覗いて少しでも生育がおかしいものや、出稲が早すぎたり遅れているものを全部抜く「系統選抜」といわれる作業を行う。田中さんはこの作業をほぼ一人で2年間続けた。

「出稲期が40%になったのが8月14日だったと書いていますね。そして、9月24日に稲刈りしとります。荒巻先生もいらして、『これは山田錦より丈が長いな』と話されたのを覚えとります。で、ハゼ干しをして10月12日に脱穀して種もみを取りました。この時に、ゴミも含めてですけど、40kgの収量があったと書いとりますね」

そして2年目には150kg、3年目には試験醸造ができるくらいの収量が確保できたという。
「荒巻先生と『酒が1トンぐらいできるかの』と話したのを覚えとります。あまり磨くと(精米すると)量が減るので、最初は50%か45%ぐらいに抑えて大事に造りたいと言っておられました。1月か2月頃に、試験醸造したお酒を利かせていただきましたが、そりゃ、大変美味しかったです」

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そしていよいよ大量醸造に向けて、バトンを渡されたのが道免一致さんだった。

「大量醸造できるくらいの収量を確保するには、6町以上の圃場が必要ということで、まず部会の農家に頼みに行ったんです。でも稲が倒れるから嫌だとみんなに断られた。困ったのう、なんとかせんといけんのうということで、広島錦でつくったお酒をみんなに利いてもらったんです。そしたら美味しかったんでしょうね。態度が急に変わってね(笑)。なんとか目標の面積が確保できたんです」と道免さん。「嬉しかったねえ」とポツリと言い、懐かしむように目を細めた。

高宮酒米部会 写真 高宮酒米部会 写真

その後再び面積を増やすことになった際には松川さんが役員会を開き、事情を説明して「〇〇さんとこはこれだけ、□□さんはこれだけやってくれ」と、名指しで協力をお願いしたという。
「松川会長の一声で一気に10町は超えたんじゃなかったかな」と道免さんがいうと、「そういう時のための部会じゃけえね。いうこと聞かすんですよ(笑)」とおどけて見せる松川さん。笑い話のように話すお二人だが、当時は相当にご苦労されたことだろう。

その後も、広島錦の栽培は悪戦苦闘の毎日だったという。

「こんなに草丈が長くて、育てにくい品種はないですよ。私が田んぼに入ったらもう先が見えんようなるぐらい高くなるんです。穂にまだ実がいっとらんうちは『ローソク立ち』いうて、すっと綺麗に立っとるんですが、穂が重たくなると倒れていく。稲刈りの時に機械が対応せんのですよ。今の機械はだいぶ対応できるようになったけど、当時は10m進んでは機械が止まって、巻きこんだ稲を外して進めて、そしたらまた止まって…」

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写真)「しんどくてもふんばれたのは田中さんのおかげ」と松川さんと道免さん。

そこまで話して何かを思い出した道免さん。
「一番覚えとるのは、4反の田んぼを刈り取るのに1日かかったんよね。もう精魂尽きて「来年はやめるで」って言おうと農協の近くまで行ってね。でも待てよ、と。『田中さんがせっかく頼って来てくれたんだから、やらにゃあいけんよの』と思い直して引き返した。これを何回繰り返したことか(笑)」
当時を思い出し、懐かしそうにはにかむ道免さん。朴訥な人柄がしみじみ伝わってくる。

高宮酒米部会 写真

道免さんも松川さんも、田中さんという営農指導員の存在が大きかったと口を揃える。

「何も資料がなかったので、肥料の割合もやり方も全部手探りでした。それを田中さんと一緒にああしよう、こうしよういうてね。米作りは指導者次第ですよ。いい指導者、いいリーダーがおらんと、いいものはつくれません」

道免さんの話を頷きながら聞いていた松川さんも「そりゃ、田中さんは作米のことは神様ですけえの。田中さんに指導してもらえるけん、高宮は随分助かっとるよね」と続ける。

「私のいうことを信じて聞いてくださった皆さんのおかげです。自画自賛じゃないですけど、これだけ倒れやすくて、収量が低い品種をつくれるのは、高宮だけだと思いますよ。ちなみに高宮酒米部会は昭和59年にできたんですがそのきっかけは賀茂鶴さんから栽培が難しい八反35号の相談を受けて…」

なんと、八反35号の相談もしていたとは…しかも高宮酒米部会の誕生に賀茂鶴が一枚噛んでいたとは、私もこの時が初耳だった。

<後編に続く>

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