1873 明治6年 ~
「賀茂鶴」誕生
木村家は賀茂郡(当時)で代々醸造業を営んでいました。その後、四代目木村和平翁が、この地の米と地下水と気候が酒づくりに向いていることに気づき、1869(明治2)年に灘で酒づくりを修業して得た醸造技術を生かし、1873(明治6)年、酒づくりを開始。木村酒造として「國輝」「菱百正宗」といった酒の販売を開始しました。
その中のひとつとして命名されたのが、「賀茂鶴」でした。「賀茂」は、地名とともに、酒を造る、醸す、という言葉を、「鶴」は、気高い瑞鳥を表し、酒の中の王様、品質日本一をめざす志を示し、1873(明治6)年9月9日、重陽の節句に名づけられました。菊酒で祝う寿ぎの日に名づけられたこの3つの文字は、それぞれめでたい意味を持ち、酒づくりへの深い想いを込めスタートしました。
1894 明治27年 ~
佐竹利市氏と挑んだ革新
日本で最初の動力精米機を導入
明治の近代化を代表する「鉄道」の波は、広島・西条にも訪れました。山陽鉄道(現JR)の神戸─広島間が1894(明治27)年に開通。“賀茂鶴”から歩いて数分のところに西条駅が誕生したのです。西条が神戸と、そしてその先の東京とつながった瞬間でした。
同年に開催された中国地方での第1回中国品評会では、第1位を獲得。この勢いで、翌年には酒造業で最初の新聞広告を打ちます。賀茂鶴は早くからブランド戦略にのりだしました。
こうした近代化を推し進めたのは、1892(明治25)年に木村和平翁の後継者となった木村静彦翁でした。先代の和平翁が、同じ西条で機械製作会社を営む佐竹利市氏に依頼した動力精米機が1898(明治31)年に導入されると、精米の技術を高める努力を重ねていきました。当時、“吟醸物”と呼ばれたこの酒は、精米歩合75%。その頃では破格の精米歩合であり、賀茂鶴独自の美酒として評判をさらに高めました。後に紺綬褒章を授かる静彦翁は、この後もさらに理想の酒を求め続けます。これが後に精白度がさらに高い「吟醸酒」の開発へとつながるのです。
1898 明治31年 ~
軟水による醸造法の開発と
相次ぐ受賞
米と同様、酒づくりに欠かせないのが水です。灘、伏見といった従来の酒処は硬度の高い“硬水”であり、西条の水は“軟水”で酒づくりに不向きであるとされてきました。この難問に挑んだのが、内陸の西条から最も近い港町である三津(現在の東広島市安芸津町)の酒造業者、三浦仙三郎氏でした。1898(明治31)年、「軟水醸造法」を開発。当時まだ存命であった木村静彦翁の義父、和平翁は、灘の酒を超えようという志で三浦氏との絆があり、その縁で自身も軟水醸造法を学びつつ、静彦翁のため、三浦氏に杜氏の紹介を依頼したのです。それが、後に静彦翁と共に酒づくりに情熱を燃やし、名杜氏と呼ばれることとなった川田喜造氏でした。賀茂鶴招へい後、毎年全国の品評会で受賞することになります。
また静彦翁は一企業人としてだけでなく広島全体の酒づくりの技術向上にも努めます。大蔵省の醸造技師であった橋爪陽氏を場長とする、近代清酒づくりの研究所(後の県醸造試験場の清酒支場)を設立しました。
万国大博覧会への出品
静彦翁は1896(明治29)年のハワイ輸出をはじめとして海外に目を向けていきます。
1900(明治33)年にはフランスのパリで開かれた「万国大博覧会」で名誉大賞を受賞。台湾、韓国、中国(当時は清)などにも出荷を始めました。あわせて1909(明治42)年、東京府(現在の東京都)日本橋蛎町に支店を開設。東京、そして世界へと視野を広げていきました。
1918 大正7年 ~
賀茂鶴の法人設立と
木村静彦翁が築いた礎
大正の時代になって、技術力や生産体制の確かな大規模酒造会社の誕生が待たれていました。そうした時代にいち早く対応したのが木村静彦翁でした。それまでは「木村酒造」という個人商店でしたが、その商品群の中でも世界に知られた「賀茂鶴」を生産する“企業”を誕生させます。1918(大正7)年、県内の有力酒造家6人と共同出資して賀茂鶴酒造株式会社を設立しました。
木村静彦翁 銅像物語
木村静彦翁は、酒造家として品質の向上・ブランドの維持や販路の拡大など経営面においてその才能を発揮するだけに止まらず、地域の発展にも尽くしました。税務署庁舎建て替えの際には私財を投じ、地元神社・寺院の修繕・改修への寄付、さらには大規模災害への義援金など、公共事業、教育、社会福祉事業に至るさまざまな領域において貢献しました。1928(昭和3)年1月5日、武田智順氏、石井群造氏、木原淳二氏、光野義男氏の4人が発起人となって、静彦翁の銅像建設案が提示され、同年1月11日の西条町議会で満場一致で可決されました。同年3月、東京美術学校教授で帝国芸術院会員だった建畠大夢氏が西条に滞在し模型を作成。同年10月7日に盛大な除幕式が行われました。銅像建設案の提出から銅像除幕式までわずか10カ月。短期間で多額の建設費が集まったことからも、木村静彦翁の業績がいかに地域で広く認められていたかを窺い知ることができます。しかし、この銅像も戦争の渦に巻き込まれていきます。第二次世界大戦中の1943(昭和18)年4月、物資不足に貢献するため、銅像が軍事供出されたのです。そして、終戦から43年たった1988(昭和63)年。再び静彦翁像は甦ります。賀茂鶴酒造の法人設立70周年事業として、日本芸術院会員・文化勲章受章者の圓鍔勝三氏に依頼し、当初の銅像と同型・同大で再建されました。
建畠大夢氏アトリエにて制作中の
木村静彦翁像
木村静彦翁の銅像完成除幕式(現・御建神社境内)
多くの地域の人々がここに集った
軍事供出/木村静彦翁本人が、戦時下の物資不足に貢献するため供出を申し出た像の右肩から出征を表すタスキがかけられている
1935 昭和10年 ~
戦艦大和への納入
1935(昭和10)年、静彦翁は甥である佐々木英夫翁に社長の座を譲ります。日本が満州事変を発端に日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく間にも、賀茂鶴の事業は拡大していきます。日本最大級の軍港、呉港と近接していたこともあり、台湾や満州へと送る軍用酒の醸造も命じられ、戦艦大和にも軍用酒として「賀茂鶴」が積み込まれていました。しかし、戦況が悪化すると原料の米も不足し、減産に次ぐ減産を強いられました。人々の暮らしを豊かに彩ってきた酒文化も危機に陥っていきました。
戦艦大和 (資料提供/大和ミュージアム)
原爆の投下、そして終戦
1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下されました。後に残ったのは一面の焼け野原。広島市内から離れている賀茂鶴酒造本社は罹災を免れましたが、古くからの得意先であった広島市内の料亭羽田別荘はその瀟洒な庭園、木々も含め全て焼け野原となりました。後に会長となる石井武氏は予備役中尉として視察に駆けつけ、事後被ばくするなど、賀茂鶴もまた惨禍と無縁ではありませんでした。そして8月15日、終戦。賀茂鶴に、広島に、そして日本人の暮らしに甚大な被害をもたらした戦争は、終わりを告げました。
1945 昭和20年 ~
復興の力へ
焼け野原となった広島。しかし、人々はその日から復興に向けて歩み出していました。市民の足であった広島電鉄は、被爆の翌日には宮島線を運行再開。昼夜を徹した奮闘により9日には市内での運行まで、一部ではあるものの再開したといいます。食を求める人々のために、広島駅前の焼け野原には露店が連なり、市民はわずかながらも飢えをしのぎ、復興に挑んでいました。賀茂鶴酒造は米の統制もあり、経営も苦しかった中、2年後の1947(昭和22)年には失業した社員救済のため「鶴屋」を設立。サイダーを製造し、復興に向け働く人々に一服の清涼を届けました。石井泰行氏(後に社長、会長)は、少年時代、鶴屋サイダーの製造を手伝ったことがあるといいます。
人々の暮らしと共に
1950(昭和25)年、朝鮮戦争が起こります。不幸な出来事ではありましたが、この特需により日本は急激に景気を回復。この年は賀茂鶴としても大きな転機となりました。1950(昭和25)年、賀茂鶴酒造の経営陣は新たな顔ぶれとなり、アメリカへの輸出を再開しました。そして、国内では先述の原爆でなくなった「中村商店」の免許を引き継ぎ、3月には広島出張所を開設。翌年には発展的に改組し、同番地に株式会社賀茂鶴広島店を開設しました。また1952(昭和27)年には鶴屋を「目的は達した」と閉鎖し、本業の酒づくりに注力。同年4月の全国新酒鑑評会で優等賞を受賞しました。同じ頃、東京出張所を本社直営とし、全国の人々へ日本酒を届けていきました。そして、1960(昭和35)年には、広島県出身の池田勇人総理大臣が誕生して所得倍増計画を発表。日本は高度経済成長へと突入していきます。
1953(昭和28)年1月4日初荷
播磨屋町19番にあった頃の賀茂鶴広島店前(現在の本通り商店街)
1955(昭和30)年1月4日初荷
鉄砲町に移転した賀茂鶴広島店前
1957(昭和32)年酒まつり/平和公園で県下の酒蔵が業界復興のため酒まつりを開催され参加した際の写真
1957 昭和32年 ~
アイデアマン 市岡武夫氏
「大吟醸 特製ゴールド賀茂鶴」の開発
優美な曲線を描いたガラス製の器に、澄み切った大吟醸。そこに浮かぶ、桜の花びら型のめでたい金箔…これまでの日本酒のイメージを覆した「大吟造 特製ゴールド賀茂鶴・純金箔入(後の大吟醸 特製ゴールド賀茂鶴)」が発売されたのは、池田勇人総理大臣(当時)が所得倍増計画を発表する2年前の1958(昭和33)年。日本が高度経済成長の活気にあふれる中、新たな日本酒の楽しみを世に問うたのです。
発案したのは、賀茂鶴のアイデアマンと呼ばれた市岡武夫氏(当時専務)。暮らしが豊かになり、さらに次の豊かさを求める人々に、「品質も見た目も一つ上」のお酒を提案したところ、大好評を博し、いまも人気商品であり続けるロングセラーとなりました。実は、発売当初の金箔は四角でした。1974(昭和49)年に昭和天皇ご夫妻の金婚式が祝われる際、桜の花びらの金箔を盃に浮かべて乾杯できるよう工夫したことが端緒でした。このときは手仕事で一枚一枚、金箔を花びらの形に切り飾り、納品させていただきました。その栄誉は長く賀茂鶴で語り伝えられ、1997(平成9)年に市販品でも採用。ゴールド賀茂鶴の金箔は桜の花びらとなり、いまに至っています。
すきやばし次郎とゴールド賀茂鶴
発案者の市岡専務が、池田勇人氏の選挙を取り仕切った縁から、政界にゴールド賀茂鶴の存在は知れ渡りました。一説によると、池田氏とつながりがあった田中角栄氏は年始に自宅でゴールド賀茂鶴を振る舞っていたといいます。また1965(昭和40)年頃から、銀座の名店として知られる「すきやばし次郎」をはじめ、さまざまな飲食店でも愛用されるようになりました。その後も長く愛され続けたゴールド賀茂鶴がさらに脚光を浴びることになったのが、2014(平成26)年にオバマ米国大統領(当時)来日の際の会食場面です。その舞台となったのはすきばやし次郎で、安倍首相がゴールド賀茂鶴を手にする姿が話題を呼びました。
1960 昭和35年 ~
酒類の価格上限の撤廃と
「豪華賀茂鶴」
「年に最低二百本、後は出来る限り…」という不思議な酒があります。賀茂鶴の粋を尽くした限定酒を、有田焼の十二代酒井田柿右衛門氏の手による器に注いだもの。先述の市岡武夫専務(当時)がゴールド賀茂鶴とほぼ同時期に発案しました。一つひとつ丹精込めた手づくりで、「良い酒は、良い容器に」と、酒類の価格上限の撤廃を機に世間の度肝を抜くような価格(現在では25万円以上)で発売しました。にもかかわらず価値を理解し賀茂鶴を愛する人々が、多く求めました。
「別製 豪華賀茂鶴」の誕生
「陶器の次はガラスだ」と、アラビア製陶デザイナーの加藤達美氏への仲介をその父である加藤土師萌氏(人間国宝)に依頼したところ、この試みを面白がり、「自分にやらせてほしい」と申し出ました。新たな「別製豪華賀茂鶴」の誕生です。息子である加藤達美氏の妻は、日本芸術院賞も受賞した日本画家の児玉希望氏の三女。これがご縁で石井泰行氏(後会長)と児玉氏の四女との結婚が成立。そのご縁は、後述する賀茂鶴の迎賓館「蓬莱庵」誕生につながるなど、賀茂鶴は日本酒文化を進化させ続けています。
文化の大切さを知り、
文化事業に踏み込む
酒は文化であるともいわれますが、それを身をもって実践したのが高度経済成長期以降の賀茂鶴の発展を支えた石井泰行前会長でした。1957(昭和32)年に賀茂鶴入社後しばらくして東京出張所(当時)勤務となると、灘や伏見の酒との知名度の差に愕然とします。そこで、「自分が賀茂鶴の広告塔になろう」と決意。積極的に文化人と交わり、普及活動に努めていったのです。起点となったのは故郷・西条、広島のつながりでした。実家も近所同士で知己があった東映の岡田茂会長(当時)から可愛がられ、さまざまな文化人・財界人に人脈を広げていきました。日本精工社長で日本経済団体連合会(経団連)常任理事の今里広記氏。広大附属の先輩であり新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭を歴任した永野重雄氏。永野氏と親交の深かったホテルニューオータニの大谷米太郎氏、米一氏父子。広島出身の藤田組(現・フジタ)社長の藤田一暁氏、永谷園社長の永谷博氏。伊藤園社長の本庄正則氏、広島出身で東京ドーム社長・会長を務めた林有厚氏など。石井前会長は、いくつもの社長会に所属して財界人脈の構築に努め、東京市場での拡売に大きく貢献しました。先述した十二代酒井田柿右衛門氏からの柿右衛門窯とのご縁は続き、今も豪華賀茂鶴は作り続けられています。また、文化人の方々に酒のラベルの題字をお願いすることもありました。文化勲章受章者の書家・金子鷗亭氏が「冨嶽賀茂鶴」、一休寺住職・田辺宗一氏が「瑞兆賀茂鶴」、漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)室瀬和美氏が「吉祥賀茂鶴」、千家十職である釡師・大西清右衛門氏が「光壽賀茂鶴」の題字を手がけています。文化人との交わりの中で磨かれ、賀茂鶴は成長していきました。
1967 昭和42年 ~
都心に憩いを
カモツルオアシスの誕生
現在の広島三越(百貨店)向かい、忙しく車が行き交う繁華街の一角に、突如オアシスが現れます。
1967(昭和42)年、高度経済成長で日本中が急速に都市化し、街の風景が変わりゆく中、市岡武夫副社長(当時)が、日本の心を一服のゆとりと共に人々に思い出してもらおうと、法人化50周年を記念して発案しました。約600平方メートルの敷地。酒づくりと日本人の原点を知ってもらうため、水田を設け、1989(平成元)年から2004(平成16)年までは稲作を行いました。繁華街の角地であるこの一等地には「ビルを建てては」という話も後日出たものの、「金銭には代えられない」とオアシスは守り続けられ、いまに至っています。
賀茂鶴の伝統を地域の力に
美酒鍋の普及
戦後の酒づくりを支えた名杜氏、光増勇氏が修業時代を振り返り、「仕事の辛さも、週に1回、蔵の中で催される“びしょなべ”の楽しさで忘れられ、翌年からは酒づくりの季節が楽しみで仕方なくなった」と語っています。元々は蔵人のことを愛情をこめ、“ビショ”さんと呼んでいたことから、“蔵人の鍋”を“びしょなべ”と呼ぶようになりました。鶏肉をふんだんに鍋に盛り、コンニャク、白菜、ねぎ、ピーマン、人参などを加えて、日本酒と塩と胡椒で煮込んだこの“びしょなべ”。蔵の中だけではもったいないと観光客向けに提供したものが「美酒鍋」のはじまりです。2005(平成17)年にオープンした直営の日本酒ダイニング「佛蘭西屋」でも人気メニューのひとつに。一企業だけではなく地域全体の活性化につなげました。
1973 昭和48年 ~
高度経済成長とオイルショック
時代の変化と消費者動向
創業(命名)百周年を迎えた1973(昭和48)年、第一次オイルショックが起こりました。インフレ抑制のため、金融引き締め政策がとられ、翌1974(昭和49)年、戦後初めてマイナス成長を記録。これまで続いた高度経済成長は、終わりを告げました。
社会が落ち着きを取り戻すにつれて、日本酒文化は転機を迎えました。醸造アルコールで3倍に増量する「三増酒」などへの不信が「本物」志向を刺激し、1970(昭和45)年から始まった国鉄のディスカバージャパンキャンペーンも牽引し、「地酒ブーム」が到来しました。
インフレが進むにつれて、物価や運送・流通に関わる費用が値上がりし、度重なる値上げを酒造会社各社が行い、1977(昭和52)年の値上げの際には賀茂鶴が全国のトップを切って値上げを行いました。
また、お酒の種類も多様化し、コンビニエンスストアや居酒屋チェーンの普及など流通チャネルも大きく変化。
お客様のお酒の楽しみ方は多様化し、1978(昭和53)年には、テーブルに置いて召し上がっていただくために「ローヤル賀茂鶴」「ヤング賀茂鶴」を発売しました。
1978 昭和53年 ~
御薗瓶詰工場の建設
明治時代に日本初の動力精米機を導入した賀茂鶴酒造は、高度経済成長期に発展したテクノロジーの力を取り入れ、製造の近代化を図りました。瓶詰の自動化と全国へ出荷する大量生産を目指して、御薗宇工業団地に、御薗蔵瓶詰工場の建設を1978(昭和53)年から開始したのです。面積約1万3千坪の敷地に、瓶詰工場・調合蔵・原酒蔵・釜場・休憩室・商品倉庫などが竣工したのは1981(昭和56)年7月。最新の瓶詰機械プラントを据え付け、その年の8月に、瓶詰初製品が誕生しました。
1980 年代 昭和55年 ~
低成長時代と二級酒志向ムード
低成長時代とメーカー各社の度重なる値上げが、二級酒志向ムードを生み、賀茂鶴酒造でも1983(昭和58)年、「ナイス賀茂鶴」を発表しました。
一方、消費者の本物志向も強まりをみせていきます。
1985(昭和60)年ごろ、純米・吟醸・生酒等の新商品を出す蔵元が現れたことで吟醸酒ブームが起こりました。しかし、この頃は、まだ特定名称酒制度はなく、その大部分が無審査二級酒であり、二級酒志向ムードにいっそう拍車をかけることになりました。全国の総課税移出数量においても、1986(昭和61)年には二級酒が一級酒のシェアを逆転。酎ハイブームや円高差益還元での輸入ウイスキー・輸入ワインの値下げもあり、総アルコール飲料の飽食時代に突入しました。
流通革命 価格競争時代
消費税が始まった1989(平成元)年。酒税法の改正もその年に行われ、従価税及び特級酒が廃止され、特定名称酒制度が導入されました。この前年、国税庁醸造試験所が東広島市に移転することが決定しています。
3年後の1992(平成4)年には酒税級別制度が完全に廃止され、多様なお酒を売り出すことが可能となり、消費者ニーズの多様化と個性化が進みました。こうした流れの中、1994(平成6)年には大吟醸「双鶴 賀茂鶴」、「純米吟醸酒」、「賀茂鶴 純米酒(後に特別純米酒)」を相次いで発表しました。
1995(平成7)年には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件や急速に進んだ円高、雇用情勢の悪化、株価低迷などを背景に個人消費は鈍くなり、経済不況、酒類需要は減退していきました。酒類において輸入ビールの見切り品のセールなど、お酒のディスカウントストアやスーパーでの価格競争・価格破壊が起こり、販売チャネル間の競争が激化しました。酒類販売免許の緩和の流れもこの頃から進み、コンビニエンスストアやスーパーの新規業態がますますシェアを伸ばすようになりました。
賀茂鶴酒造では、1997(平成9)年から魅力的な新商品とするべく季節限定商材を相次いで発表。
スーパー・コンビニエンスストア向けの商材として、1998(平成10)年には生貯蔵酒「氷温蔵生囲い(後に「冷温蔵生囲い」)」を発表し、変動の時代に乗り出していきました。
1994 平成6年 ~
伝統蔵の整備と醸造現場の改革
明治から連なる伝統的な酒づくりは土蔵の酒蔵で行われてきました。現在稼働している本社蔵は1984(昭和59)年の二号蔵を皮切りに八号蔵・四号蔵と改修をし、伝統の手作りによる醸造基盤の整備も行われてきました。しかし、消費者の嗜好が多様化する一方で、労働者不足も懸念されました。 1989(平成元)年、特定名称酒制度が導入され、より高い精米技術が求められるようになり、新設精米工場や新プラントの設備充実にも取り組みはじめました。1994(平成6)年には当時、最新の醸造設備を導入した御薗醸造蔵を完成させ、翌年には醸造を開始しました。その際、四号蔵・七号蔵(吉富蔵)は閉鎖しましたが、本社二号蔵・八号蔵での手作りによる醸造は引き続き維持しました。次項で語るように、1996(平成8)年以降も全国新酒鑑評会で高く評価され、賀茂鶴は2006(平成18)年から2018(平成30)年まで13年連続で金賞受賞するなど銘酒を輩出しています。
1956(昭和31)年 吉富蔵にあった八号蔵を六号蔵の隣に移築し、
1985(昭和60)年に改修した八号蔵
1987(昭和62)年 改修した四号蔵
1984(昭和59)年 改修した二号蔵
1995(平成7)年に醸造開始した御薗醸造蔵
蔵人の働く環境にも革新を
鶴心寮の建設
賀茂鶴の社内革新はその後も続きました。時は流れて2001(平成13)年、蔵人たちのための「鶴心寮」が完成します。蔵人は従来、酒づくりが始まる秋頃に全国各地から蔵に集まり、その年の酒づくりが終わるまで蔵の中の相部屋で寝泊まりして共同生活を送ることがならいでした。しかし機械化や価値観の変化が進展する中、蔵人の担い手が減少していきます。そこで、蔵人の住環境の改善に取り組み、醸造期間中、快適に暮らせる個室部屋と共同性を共存させた最新の寮を本社敷地内に建設しました。
2000 年代 平成12年 ~
文化を守り、育て、次代に受け継ぐ
蓬莱庵の建設とつながる日本文化
先述の石井泰行前会長と日本画の大家であった児玉希望氏とのご縁は、児玉氏が1971(昭和46)年に亡くなられてから後、東京都文京区の児玉氏旧宅の茶室を譲り受けて移築することで、2002(平成14)年の賀茂鶴迎賓館「蓬莱庵」の誕生につながりました。それから2年後、同旧宅の中心的建物であった画室棟を移築保存するため、既設迎賓館の一部として再構成する工事に着工し、1年後の2005(平成17)年の完工をもって、旧児玉邸という芸術・文化施設の保存と賀茂鶴迎賓館建設の構想が実現完結しました。ちなみに、建物の建築は安井杢工務店(京都迎賓館・首相官邸茶室等)、設計・監修は建築家(東京芸術大学名誉教授)の片山和俊氏。庭園の造園は植藤造園(京都迎賓館の作庭や桂離宮・修学院離宮の整備等)会長の桜守で有名な第十六代佐野藤右衛門氏(蓬莱庵)と社長の植藤晋一氏(画室棟)で、監修は上田宗箇流家元の上田宗冏(当時宗嗣)氏(蓬莱庵)と前述の片山和俊氏(画室棟)。まさに日本文化継承の担い手である粋人たちによる建築物で、賀茂鶴の“ブランド力”向上に寄与しました。
佛蘭西屋、オープン
日本文化を伝える、さまざまな試み
西条の駅を降りて徒歩約5分。白壁が続く酒蔵通りの一角に、日本酒ダイニング「佛蘭西屋」ができたのは2005(平成17)年。賀茂鶴の直営店として、日本酒と食のマリアージュを楽しみながら、日本酒や日本文化の魅力を感じることのできるレストランとして人気を集めています。人気メニューは美酒鍋をはじめ、日本酒の仕込み水を用いた滋味あふれる日本食や洋食の数々。洋食のベースとなるブイヨンやソースも日本料理の基本とされている「だし」に着目した「和モダンフレンチ」。また、店内も京の町家をイメージした寛げる和の空間を提供しています。
2008 平成20年 ~
革新を続け、未来へ
2000年代に入っても、賀茂鶴は常に挑戦と進化を続けています。2008(平成20)年には世界的な品評会であるIWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)に出品。「賀茂鶴純米吟醸八年秘蔵熟成酒」が熟成酒部門で最高位トロフィー賞を受賞。2011(平成23)年には熟成酒部門金賞を受賞。同年には「双鶴賀茂鶴」が大吟醸部門金賞を受賞しました。2011(平成23)年にはカモツルオアシスに最新のデジタルサイネージ(電光掲示)を設置。2012(平成24)年にはカモツル日本橋ビル(東京支社)を竣工。また、2018(平成30)年には、新瓶詰工場・新四号蔵を竣工するなど、生産体制の進化も進めています。
不易流行、
受け継ぐもの、変わるもの
2018(平成30)年、賀茂鶴は法人設立百周年を迎えました。
百周年を迎えるにあたって原点回帰を形にするために、幻の米となっていた「広島錦」と「協会5号酵母(賀茂鶴酵母)」を復活させました。広島錦は広島県醸造試験場初代場長を務めた橋爪陽氏が昭和初期に原料として使用していた幻の米。賀茂鶴酵母と呼ばれていた協会5号酵母は、1921(大正10)年に、賀茂鶴が全国酒類品評会で1位から3位を独占したため日本醸造協会で酵母を培養し、全国に配布していた酵母です。数年をかけて米を栽培して増やし、毎年試験的に醸し、2017(平成29)年、「広島錦」として発売しました。そのコンセプトは、「酒の中に心あり(酒中在心)」。賀茂鶴の行動規範のひとつとして長年受け継がれてきた言葉です。変わり続ける時代の中で酒を楽しむという文化は、平和と幸せの象徴であり続けました。常に答えはお酒が教えてくれます。酒と、お客さまの声に真摯に心を傾けながら素晴らしい日本酒文化を後世に。不易流行の取り組みを真摯に続けます。